21歳から25歳までの間に、北は津軽半島から南は熊本まで行脚。各藩に兵学、洋学の師を求め、下田では米国ペリー艦隊に乗船を頼んだ。時代に突き動かされたような松陰の旅を、冬の峠越えで追体験したり、銅像や詩碑を建てたり。各地からの報告は、歴史を生かす地域づくりと映る
後に戊辰戦争で長州藩が相まみえる会津にも、松陰は足を運ぶ。越後長岡には友人もいた。元首相の演説のおかげで逸話が有名になった「米百俵」の小林虎三郎だ
松陰・吉田寅次郎と小林は、江戸で同じ塾に通い「二虎」と並び称された。長岡では有名らしく「二虎」と名付けたどら焼きの土産物まであると知った。萩にとっても、ありがたいではないか
松陰の足跡が長く記憶されるのは、まな弟子たちが明治国家の中枢を占め続けたためでもあろう。維新にちなむ地域交流は盛んだが、会津などにはわだかまりも残る。それに対して、萩市の担当者は長州藩を「官軍」でなく「西軍」と呼ぶ。気配りが心地よく響く。
天風録 中国新聞 2009年11月6日
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